聖徳太子は何をした人?
日本で最初に、意図的な教育を行ったのは聖徳太子と言われています。
聖徳太子といえば「十七条憲法」を著し、仏教の思想や政治的な論理を説きました。
そんな聖徳太子には謎がいっぱいあります。例えば、馬小屋で生まれたとか一度に10人の話を聞いたとか、暗殺説までありますよね。
しかし聖徳太子が日本の教育文化に大きく貢献した事実を否定する人はほとんどいません。では聖徳太子が登場する前、日本はどのような教育体制だったのでしょう?
今回は原始から古代まで束の間の教育ミステリーをお楽しみください。
縄文時代の生活~無意図的教育とは
縄文時代には「教育」という言葉はありませんでした。
しかし教育の意図がなくても、人々は文化や慣習などを学び、それを伝えていくという「無意図的教育」が行われていました。ちなみに 無意図的教育とは・・・
学校のフォーマルなカリキュラムの中にはない、知識、行動の様式や性向、意識やメンタリティが、意図しないままに教師や仲間の生徒たちから、教えられていくといったものをいう。
その後、弥生時代になると農業社会の成立とニホンゴの基礎形成によって、生活や仕事を通した「教育」が始まったと考えられています。
三経義疏の読み方は?わかりやすく解説
古墳時代、政治的社会が成立して大和政権による全国制覇が実現しました。
この頃、大陸から渡来した帰化人により、大陸の文字や文化、技術などが伝えられて日本に新たな文化が作られていきました。
仏教が伝来した552(または538)年には、排仏派の物部氏と崇仏派の曽我氏が争い、勝利した蘇我馬子(そがのうまこ)は推古天皇の摂政となった聖徳太子と政権を取りました。
当時、聖徳太子は厩戸皇子と呼ばれていましたよね。
さあ、その聖徳太子は日本で最初に、意図的な教育を行います。
彼の教育方法や理論が示されているのが三経義疏です、
これは、(さんぎょうぎしょ)と読みます。
三経義疏:聖徳太子著とされる『法華義疏』 (4巻) ,『維摩経義疏 (ゆいまぎょうぎしょ) 』 (3巻) ,『勝鬘経義疏 (しょうまんぎょうぎしょ) 』 (1巻) の総称。義疏とは趣意を解説した注釈書の意。
その後、仏教は最澄や空海の平安新仏教や鎌倉新仏教へと引き継がれていきます。
大化の改新(645年)により律令国家となった日本は天皇のもとに、行政府や官人機構が置かれます。
中央政府が整ったことにより、国家による官人の養成が必要となり、「論語」などを教える大学寮や医者を養成する典薬寮(てんやくりょう)などが設置されました。
地方官人を要請する府学のひとつが九州大宰府です。
カタカナを発明?吉備真備の功績とは
平安時代になると貴族が跋扈して、政治や学問への関心が薄れていきます。さらに唐が衰退したことで、894年に遣唐使も廃止されました。
それにともなって日本独自の文化が進化していきます。いわゆる「国風文化」というやつですね。
ところで日本文化の基礎となる「カタカナ」と「ひらがな」は誰が作ったのでしょう?
ひらがなは、弘法大使空海によって創られたという説がありますが、学者の中にはこれらを否定する声も根強いです。
一方、カタカナの創案者とされるのが、奈良時代の学者である吉備真備(きびのまきび)といわれています。
かなりの天才であったといわれていますが真意の程は分かっていません。
まあ、これも教育ミステリーのひとつかもしれません。
吉備真備は695~775年まで生きて没80歳。奈良時代を生きたことになります。717年、23歳のときに唐に渡り、40歳のときに帰国しています。
風姿花伝の意味や作者とは?
武士社会にとって教育は武芸の鍛錬と基礎的な文字教育が中心でした。
戦国時代には武士の家で家訓が作られるようになりますが、これも教育形態のひとつです。このころの教育機関としては、仏典の蔵書が多い金沢文庫や足利学校などが有名です。
鎌倉時代になると法然、親鸞、道元、日蓮などによって鎌倉新仏教が広まっていきます。
室町時代には「能」や「茶の湯」などの芸道稽古論という教育的思惟(しゆい)が誕生します。
世阿弥の著書「風姿花伝」には、人間の一生における、それぞれの時期の心の持ち方や稽古の方法などが記されています。
金持ちになるには
お札で知られる聖徳太子。金持ちになるにはどうしたらいいのでしょう。
「百兆円の資産家からみれば10億円の資産家も1万円しか持っていない人も、同じ貧乏人に変わりない」という言葉があります。
資産家にとって大切なのは物の価格を所有すること。
つまり、価格を所有するものが権力者ということになります。
時の権力者は価格を所有するために、目に見えない教育という価値を大事にしていました。今も昔もその考えは変わらないのかもしれませんね。
本日もありがとうございました。