独学で働きながら保育士に合格したい!
その近道は試験にでる内容を丸暗記するのではなく、全体の流れをつかむことです。
今回は江戸から現代までの保育の全体像を説明します。
- 江戸の教育と貝原益軒の名言とは?
- なぜ「お茶の水女子大学」はお嬢様が多いのか?
- フレーベルの恩物と人間の教育
- 日本初の私立幼稚園「桜井女学校付属幼稚園」
- 幼稚園の格差問題
- 日本初の託児所「新潟静修学校託児所」
- 明治期「二葉幼稚園」と野口幽香
- 大正時代の北原白秋と童謡
- 倉橋惣三と名言、育ての心
- 倉橋惣三、生活を生活で生活へ
- まとめ
江戸の教育と貝原益軒の名言とは?
実は江戸時代には様々な子育ての本が出版されています。
中でも押さえておきたい重要人物は、貝原益軒(かいばら・えきけん)です。
彼が81歳のときに執筆したのが「和俗童子訓(わぞくどうじくん)」。
日本で最初の体系的な教育書といわれています。
これらは江戸時代の教育機関である寺子屋での教育に強い影響を与えたとされています。
貝原さんの名言はいろいろあります。たとえば次のようなものです。
知っていてもそれを行動に移さないのであれば、知らない者となんらかわりは無い。自分が幸せか不幸せかは天命に任せなさい。人のせいなどにするものではありません。自ら楽しみ、人を楽しませてこそ、人として生まれた甲斐がある。
最後まで生きる極意を教えてくれています。
そして貝原さんの言葉には、現代人が忘れているヒントも隠されています。
人に礼法があればそれは川に堤防があるようなものだ。
堤防さえあればたいてい氾濫の害はなく人に礼法あれば悪事は生じない。
今、私たちに足りないものは何かを教えてくれているようです。
なぜ「お茶の水女子大学」はお嬢様が多いのか?
お茶の水女子大の前身は、東京女子師範学校です。
この学校は1875年に開設された日本初の女子教員養成機関でもあります。
江戸時代から明治維新を経て、近代化が進む日本ではフランスの教育制度にならった「学制」が1872年に交付されました。
いわゆる義務教育制度のベースとなるものです。
その中には6歳までの未就学児を対象とした「幼稚小学校」の構想もあり、それを受けて1876年に、東京女子師範学校に付属幼稚園が誕生したのです。
ですから今でいうお受験界の名門中の名門が、東京女子師範学校(現在のお茶の水大学)付属幼稚園となるわけです。
フレーベルの恩物と人間の教育
幼稚園で行われていたのは、早期の集団学習です。
影響を受けたのは、幼児教育の祖、ドイツのフレーベルでした。
このとき尽力したのが、ウィーン万博に派遣された近藤真琴や東京女子師範学校の校長だった中村正直(まさなお)でした。
ちなみに付属幼稚園の初代校長は関信三さん。
彼は幼稚園教育に関する海外の文献を訳して、その普及や保育者の育成に力を発揮しました。
現場では、松野クララさんが主任保母として迎え入れられて、その下に豊田エユさん、近藤ハマさんがつきました。
松野クララさんは謎多き美女で知られています。
そして豊田さんと近藤さんが日本初の幼稚園教諭ということになりますね。
この二人は他の幼稚園の開設や保育者の育成にも貢献しました。
日本初の私立幼稚園「桜井女学校付属幼稚園」
最初の幼稚園モデルであった東京女子師範学校ですが、1880年から私立の保育園施設も誕生していきます。
明治時代にはキリスト教や仏教の関係者が開設したものが多いのが特徴です。
東京麹町に誕生した日本初の私立幼稚園「桜井女学校付属幼稚園」の創設者である櫻井ちかさんも、クリスチャンです。
幼稚園の格差問題
当時、幼稚園には格差がありました。
そのため1890年代には幼稚園が準拠すべき法令が求められて、1899年幼稚園に関する総合的な規定である「幼稚園保育及び設備規程」が定められました。
日本初の託児所「新潟静修学校託児所」
託児所とは専従の保育者が幼児を預かって世話をする施設です。
いまでいう保育園ですね。
日本初の託児施設は1890年、新潟の私塾である「新潟静修学校(にいがた・せししゅう)」に開設されました。
ここは学校の一部で仕事中の親の子の兄弟を預かるのが目的でした。
東京女子師範学校と違って、貧しい子どもを預かりました。
上流階級の金持ちではなく生活を守ることが目的でした。
慈善的な行いは東京でも広まりました。
当時は、子どもが幼い兄弟姉妹の面倒を見るのが当たり前の時代でした。
そのため、学校には子どもを連れた子供がたくさんいたわけです。
こうした幼い子供たちの面倒をみたのが赤沢鍾美(あかざわ・あつとみ)さんの妻である仲子さんと助手でした。
最初は隅っこで預かる託児所でしたが、だんだんと要望が増えていきます。
そしてとうとう1908年に「守孤扶独幼稚児保護会(しゅこふどく・ようちじほごかい)」と名付けて、無償ではなく1日1銭5厘の保育料を集めるようになりました。
これが日本初の託児所となるのです。
明治期「二葉幼稚園」と野口幽香
明治期の代表的な幼稚園が「二葉幼稚園」です。
ここはクリスチャン保母の野口幽香さんと森島峰さんが寄付を募って開設しました。
貧困家庭の支援事業や保護者の就労支援を掲げて活動。
3歳未満の幼児の預かりや早朝から夕方までの長時間保育にも対応しました。
保育の内容はフレーベル流の幼稚園に基づいていました。
唱歌、遊戯、手技、談話のほかにも、衛生や生活習慣の指導も行っていました。
保育料は微々たる額だったので当時のママさんには喜ばれました。
その後、徳永ユキなどの創意工夫で保育の改良が進んで大規模な保育施設となりました。
大正時代の北原白秋と童謡
大正時代に花開いたのが芸術家による児童文化の創造でした。
北原白秋、西城八十らによる童画、童謡などが活発化します。
欧米でも新しい教育が活性化して、日本にも影響を及ぼします。
例えば東京女子高等師範学校の教員だった中村五六(ごろく)、和田実、倉橋惣三らは、日本の伝統、暮らし、遊びを取り入れた保育を提唱しました。
橋詰良一は園舎を持たない露店保育を提唱して、「家なき子」ならぬ「家なき幼稚園」を誕生させました。
なかなかにクールですよね。
またこの頃、土川五郎の「律動遊戯」や山本鼎(かなえ)の「自由画運動」、小林宗作によるダルクローズ考案の「リトミック」の採用など新たな幼児表現の創出も芽生えます。
倉橋惣三と名言、育ての心
今の日本の教育に影響を及ぼしているのが倉橋惣三(くらはし・そうぞう)という人物です。
知っているでしょうか?
たぶん、多くの人が知らないと思います。
しかし保育士の試験などには必ず出てくるほどの名前です。
ということは子どもたちを指導する先生たちは殆ど認知しており、少なからず影響を受けているのです。
有名な文章に次のようなものがあります。
驚く心
おや、こんなところに芽がふいている。
畠には、小さい豆の嫩葉(どんよう・わかばのこと)が、えらい勢いで土の塊を持ち上げている。
薮には、固い地面をひび割らせて、ぐんぐんと筍が突き出して来る。
伸びてゆく蔓(つる)の、なんという迅さだ。
竹になる勢いの、なんという、すさまじさだ。
おや、この子に、こんな力が。……
えっ、あの子に、そんな力が。……
驚く人であることに於て、教育者は詩人と同じだ。
驚く心が失せた時、詩も教育も、形だけが美しい殻になる。
倉橋惣三は、日本の児童心理学者です。
東京大学出身、日本初の幼稚園である東京女子高等師範学校附属幼稚園で園長も務めています。
倉橋は海外事情に精通していました。
そして形式化したフレーベル主義を排して、恩物(神の贈り物)をかごに入れて自由に遊べる道具にしたりしました。
倉橋は幼児の自発性を尊重した保育理論を展開して代表的著作には『幼稚園雑草』、『育ての心』、『幼稚園真諦』、『子供讃歌』があります。
倉橋は日本初の体系的なカリキュラムといえる「系統的保育案の実際」を提唱します。
これは幼児のありのままの生活から出発して、自己充実→充実指導→誘導→教導と段階的に進む保育の方法です。
倉橋惣三、生活を生活で生活へ
倉橋の提唱したひとつに「誘導保育案」があります。
これは「生活を、生活で、生活へ」という言葉に代表されています。
やり方は「導入(動機付け)をして、作業に入り、完成させて、活用する」という展開です。
この基本的な考え方は、現在の幼稚園や保育園で取り入れられています。
ちなみに誘導保育案は、著書の「幼稚園保育法真諦(しんてい)」で示されています。
そこでは「幼児教育の第一義は幼児生活の価値を知ること」「幼児の生活それ自身が自己充実の大きな力を持っている」「幼児の生活をさながらにしておくことが大切」だと主張しています。
これが先の「生活を、生活で、生活へ」とつながるわけです。
この考え方が今の子どもたちの教育のベースとなっているのです。
まとめ
今回は江戸時代から近代にかけての子どもの子育てについて解説しました。
歴史を紐解くと今と昔も、あまり変わらないことに気づくかもしれません。
上流階級の幼稚園と貧困層を支援する託児所。
そこにはいつも人のために尽力する逞しい女性たちの姿がありました。
やはり女性の力は偉大です。
本日もありがとうございました。