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おすすめ!保育士試験の覚え方とコツ~独学で合格する対策【ツナガレケア】

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独学で保育士試験に挑戦する

働きながら独学で保育士に合格したい。僕もその一人でした。ただし保育士試験は学科が9科目あり、覚える内容も多いです。範囲も家庭福祉から食と栄養、心理学、実習理論など広いので一夜漬けで合格するのは難しいです。

僕は1日30分間と時間を決めて、過去の保育士試験を解きました。最初はチンプンカンプンでしたが、日々問題を解くことで傾向と対策が見えてきました。そこで発見した合格への近道は、試験内容を丸暗記するのではなく、全体の流れをつかむことかなと思いました。今回は江戸から現代までの保育の全体像をまとめてみました。

貝原益軒の読み方や名言

現代同様、江戸時代にも様々な子育ての本が出版されています。貝原益軒(かいばら・えきけん)は81歳のときに「和俗童子訓(わぞくどうじくん)」を執筆しました。この本は日本で最初の体系的な教育書といわれています。

貝原の教えは、江戸時代の寺子屋での教育に強い影響を与えたとされています。養生訓や名言もさまざまに残されています。例えば次のような名言です。

知っていてもそれを行動に移さないのであれば、知らない者となんらかわりは無い。自分が幸せか不幸せかは天命に任せなさい。人のせいなどにするものではありません。自ら楽しみ、人を楽しませてこそ、人として生まれた甲斐がある。

知っているだけではダメ、行動しなければ意味がない。知行合一ともいえる名言です。

貝原益軒の養生訓

貝原の言葉には、現代人が忘れてはいけないメッセージも込められています。礼儀については次のような言葉を残しています。

人に礼法があれば、それは川に堤防があるようなものだ。堤防さえあれば、たいてい氾濫の害はなく、人に礼法あれば悪事は生じない。

親しき中にも礼儀あり。相手を敬い、礼を失しなければたいていのトラブルは起こらない。しかし礼法をなくしたら、氾濫の害が発生するのでしょう。

貝原は健康で長生きするためのバイブルとして「養生訓」を書きました。この本には健康で長生きするためのエッセンスがまとめられています。当時、江戸時代の人々の平均寿命は40歳を下回っていましたが、貝原は85歳まで生きました。

東京女子師範学校の誕生とお茶の水女子大

江戸時代から明治維新を経て、日本ではフランスの教育制度にならった「学制」が1872年に公布されました。いわゆる義務教育制度のベースとなるものです。

その中には6歳までの未就学児を対象とした「幼稚小学校」の構想もあり、それを受けて1876年に東京女子師範学校に付属幼稚園が誕生しました。東京女子師範学校は現在のお茶の水女子大の前身です。

ドイツのフレーベルの考え

当時、東京女子師範学校の付属幼稚園で行われていたのは、早期の集団学習でした。参考にしたのは幼児教育の祖、ドイツのフレーベルです。

当時、幼稚園の設立に尽力したのが、ウィーン万博に派遣された近藤真琴さんや東京女子師範学校の校長だった中村正直(まさなお)でした。ちなみに付属幼稚園の初代校長は関信三。彼は幼稚園教育に関する海外の文献を訳して、その普及や保育者の育成に力を発揮しました。

日本初の私立幼稚園とキリスト教

最初の幼稚園モデルであった東京女子師範学校は官立になります。現・お茶の水女子大も日本の国立大学です。一方、1880年から私立の保育園施設も誕生します。私立が誕生した背景には宗教的な理由があります。

明治時代にはキリスト教や仏教の関係者が開設。東京麹町に誕生した日本初の私立幼稚園「桜井女学校付属幼稚園」の創設者、櫻井ちかはクリスチャンです。

幼稚園の数は増えましたが、当時、幼稚園には格差がありました。そのため1890年代には幼稚園が準拠すべき法令が求められて、1899年幼稚園に関する総合的な規定である「幼稚園保育及び設備規程」が定められました。

日本初の保育園の誕生はいつ?

託児所とは専従の保育者が幼児を預かって世話をする施設。いまでいう保育園です。日本初の託児施設は1890年(明治23年)、新潟の私塾「新潟静修学校」です。新潟静修学校の託児施設は、学校の一部で仕事中の親の子を預かるのが目的でした。

利用者の多くは貧しい子供でした。当時は子どもが幼い兄弟姉妹の面倒を見るのが当たり前の時代。そのため学校には幼い兄弟を連れた子供がたくさんいました。こうした幼い子供たちの面倒をみたのが赤沢鍾美(あかざわ・あつとみ)の妻である仲子さんと助手でした。

最初は隅っこで預かる託児所でしたが、だんだんと要望が増えていきます。そして1908年に「守孤扶独幼稚児保護会(しゅこふどく・ようちじほごかい)」と名付けて、無償ではなく1日1銭5厘の保育料を集めるようになりました。これが日本初の託児所とされています。

華族女子学校から貧困家庭の幼稚園へ

明治期に入ると、貧しい子供にも華族幼稚園の子どもたちと同じような保育を目指すための幼稚園が登場します。代表的な幼稚園が「二葉幼稚園」です。

二葉幼稚園は華族女子学校附属幼稚園に勤務していたクリスチャンの野口幽香と森島峰が寄付を募って開設。主に貧困家庭の支援事業や保護者の就労支援を掲げて活動しました。

3歳未満の幼児の預かりや早朝から夕方までの長時間保育にも対応しました。その内容はフレーベル流の幼稚園に基づいていました。唱歌、遊戯、手技、談話のほかにも、衛生や生活習慣の指導も行いました。保育料は微々たる額だったので当時のママには喜ばれました。その後、徳永ユキなどの創意工夫で保育の改良が進んで大規模な保育施設となりました。

大正時代の児童文化

明治から大正に入ると児童文化も活発化していきました。大正時代に花開いたのが芸術家による児童文化の創造でした。北原白秋、西城八十らによる童画、童謡などが注目されていきます。

欧米でも新しい教育が活性化して日本にも影響を及ぼします。東京女子高等師範学校の教員だった中村五六(ごろく)、和田実、倉橋惣三らは、日本の伝統、暮らし、遊びを取り入れた保育を提唱しました。

橋詰良一は、園舎を持たない露店保育を提唱して「家なき幼稚園」を誕生させました。この頃、土川五郎の「律動遊戯」や山本鼎(かなえ)の「自由画運動」、小林宗作によるダルクローズ考案の「リトミック」の採用など新たな幼児表現の創出も芽生えます。

まとめ

今回は江戸時代から近代にかけての保育の原理をまとめてみました。上流階級の幼稚園と貧困層を支援する託児所など歴史を追っていくと、保育のヒントが見えてくるように思えます。そして時代の変遷にはいつも人のために尽力する逞しい女性たちの姿があります。やはり女性の力は偉大ですね。

本日もありがとうございました。

 

 

 

 

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